カテゴリー: ライフスタイル

日本の就活は気持ち悪いから学生は好きにしたら良いよ

日本の就活は気持ち悪いから学生は好きにしたら良いよ

会社のデスクに座っていると、採用面接のやりとりが聞こえてきた。
面接に応募してきたのは学生だ。面接官は僕の知らない上司だ。
やりとりを聞いて、なんともむずがゆい気持ちになった。
なぜなら、僕がいまその面接官と面接したらまず間違いなく不採用になると思ったからだ。
その面接官の質問に、僕は頭のなかで答えを返そうとした。
あまりに抽象的な質問や、意味のわからない質問が山ほどあった。
僕は僕なりにその質問に答えることはできるだろう。
でも面接官が望むような答えは、おそらく僕からは出ない。

面接でよく問われる以下のような提携質問がある。
「あなたの強みはなんですか?」
「いままでの経験を話してください」
少しでも働いて経験を積んだ人ならある程度話せることを持っていると思う。
僕はいまなら、「僕はこういうことしてきました」、「こういうことなら結構うまく出来ますよ」というのは言うことができる。
しかし、ただただ学業に専念してきた学生には、少し大変だ。
僕が大学生の時には、この質問にはうまく答えることができなかった。
まわりと自分がどう違うのか、それすらもうまく掴めない。それゆえ差別化もできない。

ほかに面接官はこんな質問をした。
「社会人にとって大切なこととはなんだと思いますか?」
この質問に学生はうろたえた。
うんうん、うなり、苦しんだあげく、「あいさつをすることですかね?」と答えた。
すると面接官は強い口調で「それは人としてのあたりまえだろう!」と返した。
僕は軽く笑ってしまった。僕のまわりには、それがうまくできない人たちが大勢いた。
僕よりキャリアの長い人たち、「社会人」として何年も生きてきた人たち。その人たちの中に
あいさつが苦手な人達。そんな人達は大勢いた。
ただ大切なのは、その人たちは自分が得意なことをすると、結構すごい人たちだ。
だれにだって得手不得手はある。
平均的で面接官のステレオタイプにかなう人じゃないと、どうやら採用は大変なようだ。
意見の不一致に同意できる日本の会社の面接官はあんまりいないみたい。
特に会社が大きくなればなるほど。

さらに面接官は「一流の社会人とはなにかわかるかね?」と学生に聞いた。
この質問に学生はさらに窮する。
僕はさすがに、やれやれこれが老害か、と思わざるを得なかった。
そもそも社会人ってなんだろう?
どうやら学生は社会人ではないようだ。
主婦や主夫は社会人なのか?
金を稼げば社会人?
じゃあパートタイムの人は?
宝くじで億万長者になって仕事していない人は社会人?
株や印税で不労所得をしている人は社会人?
考えれば考えるほど意味不明な言葉だ。
おそらくはじめから意味の無い言葉なのだろう。
もし仮に社会人がビジネスマンであるのなら、答えは簡単だ。
より金を稼ぐ人。それが一流の社会人。
環境壊したり、人をできるだけ安く使ったり、もうとにかく利益がでればなんでもオッケー?
なんか違うと、僕は思う。

面接官はその後、長々と持論を展開した。少し陶酔しているような口調で。
僕は居酒屋で酔っぱらいのたわごとを聞いているような気分になった。
なにを言っているかよく分からない。

面接に来た学生はおそらく不採用になるだろう。
面接官は面接の最後に、学生に対し叱咤するようきつい言葉を並べた。
今日は落ち込んだに違いない。
面接ってもっと自然に出来るはずなのにどうしてこんな感じなんだろう。

僕はその学生に、自分の好きな生き方しても大丈夫だよと伝えたくなった。
その子には、その子なりの得意なことや好きなことがあるはずだし、それについてならもっとうまく話せたんと思う。
もっと自分にあった場所はどこかにある。それは見つかるまで探し続けて欲しいと思った。

この学生に限らず、もっとみんな自由に、自分の好きなようにやっていいと思う。
だれもやってないことやってもいい。
好きなことをしてもいい。
行きたいところにいけばいいし。
まわりの忠告なんか聞かなくていい。
とにかく自分で考えて、自分で決める。

だれが決めたのか知らないけど、新卒で会社に入って上を目指す!みたいのは古い考え方だと思う。
別に上なんか目指さなくてもいい。横に行ったり、別の場所に行ったって良い。
自分の好きなとこに行けば良い。

こんなこと言うと、「あれ?僕も老害かな?」と考えてしまう。
でもそれでもこういうことは伝えたい。

フィンランドのドキュメンタリー映画「365日のシンプルライフ」を見て、モノと幸せについて思ったこと。

フィンランドのドキュメンタリー映画「365日のシンプルライフ」を見て、モノと幸せについて思ったこと。

 

はじめに

こんにちは!!映画大好きケイゴです。
突然ですが、みなさんの部屋には今どれくらいの「モノ」がありますか?
おそらく自分でも把握できないくらいたくさんのモノに囲まれているのではないでしょうか?
今回は僕が「365日のシンプルライフ」を見て、自分が必要とするモノについて考えてみました。

どんな映画?

ヘルシンキ在住、26歳のペトリは、幸せを見つけるためにある実験をすることにした。

ルール:

  • 持ち物はすべて倉庫に入れる
  • 持ってこれるモノは一日にひとつだけ
  • 一年間続ける
  • 一年間なにも買わない

こんなにたくさんのモノがあるのに、どうして自分は不幸なのだろう。
ペトリはその疑問から出発し、自分が本当に必要とするモノを見つけ出す。

自分がなぜ不幸なのか、考える場所が必要となった

考えるためのスペースを確保するため、ペトリはモノを排除した。
たしかに部屋にテレビやパソコンや本屋や漫画やCDがあると暇を潰せる。
でもその娯楽で自分をごまかして、本当に必要なモノが見えなくなる。

それらの「モノ」を持ってあなたは幸せですか?

なにが本当に必要なのかは、自分で見極めないといけない。
自分がソレを本当に必要しているかどうかは、一度手放すと簡単に分かる。
自分が本当に必要としているモノは、自分の手の中に戻ってくる。
これは僕の経験から得た教訓だ。
ロンドンにワーホリで行った時はスーツケースひとつだった。
携帯やパソコンもなしで行った。
音楽もやりたいと思っていたけど、楽器も持たずに行った。
でも全部自分の手の中に入ってきた。
必要なモノは自然と戻ってくる。

「モノ」を持つことは幸せか

モノがなにもないと不幸かもしれない。
たとえば、家にベッドがない。
冷たい床で寝るのはつらい。
でも最低限生活できるモノがあれば、それでいい。
モノがあると、快適に過ごせる。
快適に過ごすことは出来るが、幸せにはしてくれない。

「モノ」を買うために働いているの?

お金があれば、モノが買える。
でもたくさんモノがあっても、幸せにはなれない。
幸せであることは、人生にとって大切だ。
幸せであれば、なにもいらない。
そう言ってしまっても、言い過ぎではないと思う。
頑張って働いたお金で、モノを買っても満たされない。

僕にとって必要なモノはなんだろう?

僕にとって大切なものは「自由」だ。
たとえばコミュニケーションの自由。
友達と連絡を取るのにパソコンや携帯がいる。
だから僕にとってiPhoneは必要なモノだ。
モノの奥には人との交流がある。
僕の人生にはこれが欠かせない。

人には人が必要

「いま一番恋しいものはなに?」ペトリのいとこのピック・イェッセが尋ねる。
ペトリが返事に困っていると、ピック・イェッセがこう言う。
「恋人はいるの?それが恋しいものだね。まだ見つけていない。いつ、見つけるつもり?」

ペトリが学んだこと

生活に必要なモノは100個くらいだと分かった
その次の100個は生活を楽しむため
所有とは責任であり
モノは重荷になる
どんな重荷を背負うかは自分で決める
ペトリは実験を通してこう学んだ。
自分にとってなにが必要かそれを見極め、自分で選ぶこと。

おわりに

僕はいままで20十カ国以上旅をしてきた。旅をするときはカバンひとつだ。
旅をしているときはなにもいらない。
普段の生活で必要と思えるモノは、旅にはいらない。
からだひとつと、バックパックひとつで十分だ。
きっと僕らの人生も同じようなものだと思う。
人の人生は移動し続ける。
それは旅と変わらない。

 



【ひとりでいるのはそんなに寂しい?】森博嗣の孤独の価値を読んで思ったこと【food for thought】

【ひとりでいるのはそんなに寂しい?】森博嗣の孤独の価値を読んで思ったこと【food for thought】

はじめに

孤独の価値を読んで思ったことを書いていく。最初に断っておきたいのだけれど、これは書評ではない。森博嗣の【孤独の価値】を読んで僕が思ったことを、ただ単純に書くだけだ。読書感想文と思ってもらってもいいし、僕の勝手な意見とも思ってもらって構わない。
どうやら僕は本について書くことが苦手なようだ。だから書評というスタイルは放棄して、勝手に書かせてもらう。ただ本はfood for thought(考えるためのアイデア)として使わせてもらう。
僕は読んだ本の内容はすぐに忘れてしまう。だから自分でも気づかないうちに読んだ本のアイデアを借用していることがある。あるいは気づいていながらも、素知らぬ顔で借用していることもある。ご容赦頂きたい。

孤独の価値

 

ひとりでいるのは寂しいこと?

ひとりでいるのは寂しいことだろうか?それはどうして?そもそも、それはそんなに悪いことなのだろうか?
寂しさについてちょっと考えてみよう。

どんな時に人は孤独になるのか?

人は、どんな時に寂しさを感じるのだろうか?まわりに誰も人がいない時?それとも、周りに人がたくさんいるのに、誰も自分のことを気にもとめない時?僕は後者の方が寂しいと思う。
まわりに誰もいない時は、どちらかというとすがすがしい気分になる。ひとりで森の中を歩いたり、夜の静かな街を自転車で走ったり、だれもいなくて気持ちが良いと僕は思う。
飲み会でみんな楽しく話しているのに、自分は話題に着いて行けない。どこか居心地の悪いような感じがする。むしろそんな時に寂しい気持ちにはならないだろうか?
あるいは飲み会を存分に楽しんだとしても、解散したあと楽しさが急に去ってしまって寂しい気持ちになる。帰り道急にしんとした気持ちになって、現実に戻ったような気になる。自分を満たしていたものが急に失われて、少し寂しい気持ちになる。
なにもないことが寂しいのではなくて、あったものが失われるときに人は寂しさを感じる。こういう時に寂しさはやってくる。

つながること、つながりすぎること

テクノロジーの進歩のおかげで人と人のコミュニケーションの幅が広がった。また他人とコミュニケーションを取ることも手軽になった。
フェイスブックやツイッターやインスタグラムをはじめとするSNSで他人といともかんたんにコミュニケーションが取れる。
直接会ったことがない人とコミュニケーションを取ることも簡単だ。外国語を知っていれば、国を超えてコミュニケーションを取ることだって可能だ。今は誰とだって話ができる。
つながることが簡単になった一方、ひとりでいる時間が減った。ここで言うひとりの時間というのは、物理的・精神的にひとりの状態を指す。ネットにも繋がっていないし、まわりには自分しかいない。そういうひとりの状態だ。
暇さえあれば(暇がなくてもわざわざ)みんなまめにSNSをチェックしているのではないだろうか?
人によっては、まわりに友達がいてもずっとスマートフォンの画面を見続ける。目の前の人より画面の友達の方が大切なのだ。
この必要以上につながりを求める行為は、異常な状態だと思う。それはまるで空腹でもないのに、食事を取り続けているかのようだ。もはや味なんてわからない状態でも、なお食う。
それは孤独という隙間を恐れているからだ。隙間ができないようにつながりをたらふく詰め込む。

 

つながることは簡単だが断ち切るのはエネルギーが必要

人とつながること、これってなんて簡単な事だろう?札幌くらいの大きさの街でも、外に出れば人に会える。シャイと言われている日本人でも、夜の街に出ればいろんな人に会える。ビールを一杯飲む間に他人はトモダチに変わる。
すでに書いたがSNSを通して他人と関係を築くことも可能だ。

しかし断ち切ること、それはとても面倒。トモダチになるよりも大きなエネルギーが必要だ。

孤独は自由

別に一人になることを勧めているわけではないけれど、孤独や寂しさを知ることで、わかる人の温かみはあると思う。
ちょっと距離を取ることで、近づくことで、それぞれの視点で、それぞれの発見がある。
一人にも楽しいし、人といるのも楽しい、そう思えるのがちょうどいいと思う。少なくとも僕はそう思う。つながりを求め過ぎる現代社会、少し距離を取って、孤独の価値を考え直してみるのも悪くないのでは?

 

待つことはやめよう

待つことはやめよう

待つことについて

どうもkeigoです。シャワーを浴びながらこんなことを考えました。

待つことは良くない。

失うもの

人は何かを待っている時に二つの大切なものを失います。

それは時間と機会です。

待っていても時計の針は止まることなく動き続けます。準備が完全にできたら、あれをしようこれをしよう。それでは手遅れになります。

やりたいことがあるならすぐにやらなければ、準備は準備のままになります。そしてやがてモチベーションは下がり、その準備に対して使った時間は人生の重荷となります。

僕は音楽がとても好きでした。もちろん今でも好きですし、毎週新しい音楽を聞いたり、週末にはクラブにもいくし、夏には夏フェスにも行きます。気が向いたらギターも弾きます。

中学生の時から楽器を始めて、高校生でバンドを組んで、大学生になってもだらだらと音楽を続けていました。ロンドンに行ってからもわざわざギターを買って音楽をやろうとしていました。もちろんライブをしたり、曲を撮って友達に聞かせたりしましたが、自分の作った曲をちゃんと世の中に出すことはしませんでした。恐かったのかもしれません、人から批判されることが。もしちゃんと世に出せば、100人に1人くらいは、ちょっといいかもなんて思ってくれたかもしれません。批判も集めれば情報になり、そこからなにかを学べていたかもしれません。でも僕は一歩踏み出せずにただただ時間と機会を浪費してしまいました。

準備(インプット)と実行(アウトプット)を繰り返して進むこと、それがやりたいことを実現する方法です。上手にできなくても良い。とにかく人に見せてみよう。

 

なんのために待つのか

あなたは今なにを待っていますか?そしてそれは何のために?

人生には耐える時もあります。ですが苦痛のために今を犠牲にする必要はないです。
我慢するならば、その奥に目標や希望があるべきです。

もしあなたが我慢の奥になにも喜びが見えないのであればそこから一歩踏み出すべきです。

もしかしたら既にあなたは自分が何したいのか知っているのではないでしょうか?自分ではそれに気づきながらも、見えていない振りをしているだけです。「現実的な理由」と称して勝手に壁をつくっているだけでは?

 

とにかくやってみる

なんでもいいからとにかくやってみることが大切です。当然失敗は避けられません。

でもそこからひとつひとつ教訓を得ていけば、それが蓄積し、やがてかけがえのない経験になります。

例えば僕の経験した事でいうとこういうものがあります。

大学を卒業した後、僕は日本での就職はせずにロンドンへワーキングホリデイのビザを使って行きました。リーマンショックで当時の就職は超氷河期。特にやりたい仕事はないし、別にいま日本で働く必要はないと思い渡英を決断しました。お金は大学に入ってからバイトをして貯めていました。

渡英をするため僕は宣伝に流されるまま、留学エージェントを使い、大きな出費をしてしまいました。エージェントに支払う仲介料に、渡英して最初に泊まるホームステイ先、語学学校、ロンドンの日系不動産屋、それらは度が過ぎるほど高額でした。そこから僕は学びました。

不安は人からお金を奪う。そして先の見えない事が人を不安にさせる。まずは知る事が大切だ。
まずはたくさん情報を集める。そして整理する。それから判断する。それだけでピントの外れた決断を減らせる。

高い勉強代を払いましたが、僕は多くの教訓を学びました。そしてこの教訓は実際になにかをやって、後悔して、そこからやっと学べたものでした。行動して、失敗してやっと発見できた学びです。

最後に

ここで僕が伝えたかったのは、とにかくやってみようということです。準備は大切です。でも準備は行動のためのものです。下手でもいいし、準備が完璧に整わなくでも一歩踏み出してやってみよう。そうすればそこからなにかを学ぶことが出来ます。
この文章も、僕の考え方や伝え方は粗末でしょう。それでも公開して、失敗して少しずつ学んでいきます。

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