カテゴリー: 本

【ひとりでいるのはそんなに寂しい?】森博嗣の孤独の価値を読んで思ったこと【food for thought】

【ひとりでいるのはそんなに寂しい?】森博嗣の孤独の価値を読んで思ったこと【food for thought】

はじめに

孤独の価値を読んで思ったことを書いていく。最初に断っておきたいのだけれど、これは書評ではない。森博嗣の【孤独の価値】を読んで僕が思ったことを、ただ単純に書くだけだ。読書感想文と思ってもらってもいいし、僕の勝手な意見とも思ってもらって構わない。
どうやら僕は本について書くことが苦手なようだ。だから書評というスタイルは放棄して、勝手に書かせてもらう。ただ本はfood for thought(考えるためのアイデア)として使わせてもらう。
僕は読んだ本の内容はすぐに忘れてしまう。だから自分でも気づかないうちに読んだ本のアイデアを借用していることがある。あるいは気づいていながらも、素知らぬ顔で借用していることもある。ご容赦頂きたい。

孤独の価値

 

ひとりでいるのは寂しいこと?

ひとりでいるのは寂しいことだろうか?それはどうして?そもそも、それはそんなに悪いことなのだろうか?
寂しさについてちょっと考えてみよう。

どんな時に人は孤独になるのか?

人は、どんな時に寂しさを感じるのだろうか?まわりに誰も人がいない時?それとも、周りに人がたくさんいるのに、誰も自分のことを気にもとめない時?僕は後者の方が寂しいと思う。
まわりに誰もいない時は、どちらかというとすがすがしい気分になる。ひとりで森の中を歩いたり、夜の静かな街を自転車で走ったり、だれもいなくて気持ちが良いと僕は思う。
飲み会でみんな楽しく話しているのに、自分は話題に着いて行けない。どこか居心地の悪いような感じがする。むしろそんな時に寂しい気持ちにはならないだろうか?
あるいは飲み会を存分に楽しんだとしても、解散したあと楽しさが急に去ってしまって寂しい気持ちになる。帰り道急にしんとした気持ちになって、現実に戻ったような気になる。自分を満たしていたものが急に失われて、少し寂しい気持ちになる。
なにもないことが寂しいのではなくて、あったものが失われるときに人は寂しさを感じる。こういう時に寂しさはやってくる。

つながること、つながりすぎること

テクノロジーの進歩のおかげで人と人のコミュニケーションの幅が広がった。また他人とコミュニケーションを取ることも手軽になった。
フェイスブックやツイッターやインスタグラムをはじめとするSNSで他人といともかんたんにコミュニケーションが取れる。
直接会ったことがない人とコミュニケーションを取ることも簡単だ。外国語を知っていれば、国を超えてコミュニケーションを取ることだって可能だ。今は誰とだって話ができる。
つながることが簡単になった一方、ひとりでいる時間が減った。ここで言うひとりの時間というのは、物理的・精神的にひとりの状態を指す。ネットにも繋がっていないし、まわりには自分しかいない。そういうひとりの状態だ。
暇さえあれば(暇がなくてもわざわざ)みんなまめにSNSをチェックしているのではないだろうか?
人によっては、まわりに友達がいてもずっとスマートフォンの画面を見続ける。目の前の人より画面の友達の方が大切なのだ。
この必要以上につながりを求める行為は、異常な状態だと思う。それはまるで空腹でもないのに、食事を取り続けているかのようだ。もはや味なんてわからない状態でも、なお食う。
それは孤独という隙間を恐れているからだ。隙間ができないようにつながりをたらふく詰め込む。

 

つながることは簡単だが断ち切るのはエネルギーが必要

人とつながること、これってなんて簡単な事だろう?札幌くらいの大きさの街でも、外に出れば人に会える。シャイと言われている日本人でも、夜の街に出ればいろんな人に会える。ビールを一杯飲む間に他人はトモダチに変わる。
すでに書いたがSNSを通して他人と関係を築くことも可能だ。

しかし断ち切ること、それはとても面倒。トモダチになるよりも大きなエネルギーが必要だ。

孤独は自由

別に一人になることを勧めているわけではないけれど、孤独や寂しさを知ることで、わかる人の温かみはあると思う。
ちょっと距離を取ることで、近づくことで、それぞれの視点で、それぞれの発見がある。
一人にも楽しいし、人といるのも楽しい、そう思えるのがちょうどいいと思う。少なくとも僕はそう思う。つながりを求め過ぎる現代社会、少し距離を取って、孤独の価値を考え直してみるのも悪くないのでは?

 

【したたかに、それでも生きる】悪童日記【小説家アゴタ・クリストフの処女作】

【したたかに、それでも生きる】悪童日記【小説家アゴタ・クリストフの処女作】

まだ幼い双子が母親に連れられて来たのは小さな町にある祖母の家。まわりから魔女と呼ばれる祖母のもとへ、その二人は疎開児童として預けられた。

戦争の中、爆撃や食糧難から逃れるために、大きな町から小さな町へと母親に連れられてきた。母親は去り、双子はおばあちゃんのもとへ残された。

「ぼくら」はそこで、したたかに生きていく。

 

二人はおばあちゃんに従うことを拒否した。労働を全くしなかったし、おばあちゃんのいうことは聞かなかった。しかしそうしないとおばあちゃんは二人に食べ物も与えてはくれないし、家にもいれてくれなかった。

そこで二人は労働を受け入れた。その日から彼らにできる事であればどんな仕事でもするようになった。

 

双子は体を鍛える。お互いにベルトで叩き合い、手を火で焼き、体にナイフを突き立て、その傷口にアルコールをかける。痛みを超えるまで双子は体を鍛える。

双子は精神も鍛える。二人はまわりの人からの心無い言葉や罵詈雑言を言われると膝が震えたり、顔が赤くなった。双子はお互いに罵りあう。言葉が意味を持たなくなるまで二人はお互い罵りあう。しかし愛ある言葉も二人の心を揺らす。彼らは母親からの愛情のこもった言葉を形骸化させるため、罵りと同じ要領で愛ある言葉の意味がなくなるまで二人でその言葉を繰り返した。

 

二人は文具店から紙とノートと鉛筆を手に入れ学習をする。辞典で言葉の意味を調べたり、聖書を使って読み書きの練習をする。

双子は互いにテーマを出しあい、下書き用の紙に作文をする。そしてその作文が基準を満たせば、大きなノートに清書をする。その大きなノートに書かれたものが、この悪童日記だ。

大きなノートに書く作文には満たすべき基準がある。そのルールは事実しか書かないということだ。そのルールを噛み砕くとこうなる。

・おばあちゃんは魔女に似ている。こう書くのは主観であり事実ではないから不可。

・おばあちゃんは魔女と呼ばれている。これは事実なので可。

曖昧で定義できない感情は書かず、事実について書くにとどめるのをこの双子は良しとしてノートに作文をしていく。

 

双子には確固たる基準を持っている。二人は子供ながらに、いや子供であるからこその倫理観に従って行動する。そしてその倫理観は傍目から見ると、残酷に見えることもある。こころが無いようにみえる。一般的な善悪には沿わず、独自の視点で双子は世界をみる。それは無垢であり、過激である。

その二人の目を通し、体験は綴られる。戦争、虐殺、死、安楽死、病気、差別、宗教、性、教育、いじめ、貧困、欲望などの幅広い事柄が二人へ近づく。そして二人はそれに応える。

悪童日記はハンガリー出身の作家、アゴタ・クリストフによって書かれた小説だ。疎開児童が自らの体験を綴るかたちで物語が書かれている。細かい章立てで小説は構成されており、寸劇があつまり流れのあるストーリーを構成している。主語が常に「ぼくら」なのが非常にユニークだ。

疎開児童というととっつきにくいかもしれない。でもそれでもぜひ手を伸ばしてみて欲しい。すごく芯のある話だから。

 

 

 

 

― Sponsered ―